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プリズム発達研究所

プリズム発達研究所

ほがらかの父は名コーチ。

【 はじめに 】
私の父がこの夏、亡くなりました。癌闘病生活を送っていましたが、安定した状態に入りつつあった矢先に突然急変し亡くなりました。前日に、「明日行くからね」と言ってあっただけに、とても哀しい気持ちでした。

 急変し、何度も心停止しながら蘇生し、でも一日もたずに亡くなりました。でも、最期、本当によくがんばった。

 息子として、医師として、心臓マッサージをさせてもらいました。病院の皆さんには感謝しています。

 あまりのショックにこの4ヶ月、何もなかったように振る舞ってきたのですが、自室の写真立ての中の父を見ると、いろんな思い出がよみがえってきて、涙が出ます。父は、子どもたちの名コーチだったことを、思い出します。小学校の教師として、地元のソフトボールの監督として、少年サッカーのコーチとして。
 
 そんな父の素晴らしさと、私がどんな影響を受けてきたのかを、時間のあるときに、少しずつ綴っていきます。


【父の生い立ち】

和菓子職人の大家族に生まれた父は、実質下から2番目で末っ子扱いだったようです。元気でやんちゃだったようです。スポーツが万能でした。晩年はテニスばかりやっていましたが、野球、ソフトボール、サッカーもコーチ経験があり、その他の球技も問題なくこなせたようです。

 父は、高校時代テニス部でしたが、その高校は当時全国的にも有名なサッカー強豪高でした。(赤タスキで有名。)おもしろいエピソードがあって、
その高校が遠征中に日程間違いで秋田商業高校が練習試合に来てしまい、やむを得ず、残っている運動部で即席のサッカーチームを作って試合したが、勝ってしまった、というものでした。試合に出た父がどのように活躍したかは自分では話さなかったのですが、きっと活躍したと思います。

 子どもの頃から小学校の先生になりたかったんだよ、と言っていました。でも、高校で遊びすぎて?かどうかは分かりませんが、志望校に落ちたので、浪人したそうです。今の河合塾の元となっている塾に通ったそうです。当時、おそらく大人数のきょうだいを抱えて浪人させる余裕はきっとなかったでしょうから、相当バイトもしたんじゃないかな、と思いますが、翌年見事、志望校合格したようです。今の愛知教育大学の前身、愛知学芸大学ですね。

 初志貫徹、というようなことを言いたかったのだと思いますけど、やっぱり遺伝するのか、息子(私)も同じように浪人しましたね(笑)やりたいことはあきらめない、というのは父に教わったことです。ちなみに、姉も音楽がやりたくて、浪人しました。(姉ちゃん、ばらしてゴメン)

 まあ、でもそんなこんなでめでたく教員への第一歩を踏み出した、父でした。

【カブスカウト入隊】
 私が、病気がちで、学校もかなり休んだというと、あまりみなさん信じてもらえませんが、さらに相当の人見知りで、人前だと本当に緊張してしまう僕でした。
 お店で欲しいもものを注文できずにモジモジしていることがほとんどだったし、早口の友人に囲まれるとどうしていいかわからいことが多かったです。

 父は、そんな僕を見て、ボーイスカウトの下部組織のカブスカウトに入れました。社会的な貢献活動やキャンプなどの活動を集団でするものです。そして、体力のなかった僕のために、地元のカブスカウトではなく、隣のまた隣の町の隊に入隊させました。
 毎週日曜日の活動の日は、自転車で1時間かけて通っていました。父は50CCの原付オートバイでついてきてくれました。

 このカブスカウトは保護者の参加というか同伴も結構義務つけられていました。慣れるまでは毎回一緒についてきてくれました。街頭募金活動や石徹白キャンプ、犬山のサツマイモ畑で収穫して、犬山から西春町(現在の北名古屋市)まで徒歩で戻るというすごい企画もこなせるようになっていきました。そして、小学5年生になって、僕は「サッカーやりたい」と父に頼んだのでした。これが、私のサッカーとの出会いになります。体力もついて、父もOKをくれました。

 ちなみに、このカブスカウトは、たまに電車で通いましたが、降りるべき駅で連結車両で閉鎖されて降りられずに、ずーっと泣いていたら、二人組のお姉さんが、次の駅で折り返し戻るところまで誘導してくれました。ありがとうございました、お姉さん。(本当に、涙もろくて弱虫でした・・・・、小学4年男子。)


【サッカースクール入団】
 近所の友達に遅れること約1年。私は地元のサッカー少年団に入りました。なにせ基本的な技術が後れていましたが、なんとか追いつきます。
夏休みに富士山の麓で合宿があり、仕上げに大会も開催されました。我々のチームは、市内でも強くない方でしたが、父が監督し、僕らは3位に入賞します。チームMVPを、他のチームの監督にお願いしていた父です。公平さを大事にしたかったのでしょうね。自分が監督で息子がMVPじゃ、微妙ですものね。適材適所、わかりやすい指導で僕らは3位になれたのでした。

 その後、サッカーでは、私が市の選抜チームに入ったため、父のチームでは試合することはなかったのですが、ずっとアドバイスをくれました。次に、父のコーチとしての手腕が発揮されるのは、地元の少年ソフトボールの場になります。

 比較的こどもの人数が多かった時代でした。小さな団地や地域ごとでもソフトボールチームがたくさんあり、夏休みのラジオ体操のあとでそのまま練習という形でした。そして、夏休みの最後にトーナメント大会があるのです。

 戦前の我々の下馬評は低かったと思います。しかし、夏休みの朝、毎日コーチとして練習に参加してくれた父が、近所の子どもたちの特徴を上手に見抜いてポジション決めをしていきます。息子の僕が、キャプテンでしたが、小柄で俊足ということもあって、一番ショート。僕としては花形ピッチャーを希望していたのですが・・。カッっとなりやすいことをよくわかっていたのでしょうね。そして、ピッチャーには球は速くないがコントロールがよく、穏やかな性格のU君、6年生の中に小柄な4年生をセンターに抜擢する等の手腕。打撃指導もシンプルでバットを水平に寝かせてセンター方向へ、非力な選手は短く持って、転がせ、のような感じでした。

 いざ大会が始まると、要所要所でコーチングがはまり、我々は5回勝利し優勝しました。団地のチームでしたが初優勝だったと思います。飛び抜けた選手はいないけど、上手にまとめていく父でした。転職だなあ・・・。


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